美術家 清水義光の芸術世界

中国旅行記(1)~(20)

-この「中国旅行記」は現代中国には文革前の資料はなく、貴重なので・・・・との中国の方からの要望で2013年前半に書いたものです。
翻訳文がこのホームページの中国語版に流れていますが、原文を日本の方々にも・・・・との声が多く、ここに掲載することにしました。-

中国旅行記(6)

  私は大陸を見たい一心でやって来た。
島国で育ち、島国根性ともいわれ、大陸とはどんなに大きく、分厚いのかこの目で見てみたい。世界一のユーラシア大陸に立ってみたいと願ってきた。
広東からの車窓から見る風景はなるほど茫漠たるもので、我々の日本はすぐ後ろに山があり、前には海がある。そういうものがここには無い。第一大地の色が赤い。中国の建物などの朱色がこういう大地から生まれたということが解った。海を見たことがない人がほとんどなのだろう。
我々は海の民で入りくんだ入り江に来る魚をいただいて生きてきた。牛の肉などは100年位前にやっと食するようになったという。今主食のお米は2000年前に中国、韓国を経て稲作農業で伝えられた。それ以前の12000年間を日本では縄文時代という。
大地を耕すということを知らず、自然の実りをいただき、それを食べつくすことを避けて次の土地へ移動していったという。
こういう生活があまりにも長く、人々の心の中には大地を奪い合うという心は全く発生していなかったという。
日本人は常に、現代においても和の心を大切にする。それは家の配置が大きな要因らしい。
縄文部落は多くて50人単位で構成され、家々は互いの家を見守れるように円形に配置されていたという。それが輪の心、和の心になったと言われている。
私の友人によると南米に移住した日本人の住居を発見することは容易であると言う。広い大地に決して住めない。小山があり前に川がある所に必ず住んでいる。それが日本人の習性になっていると言う。
中国の大地の広大さの中で平然と生きている人々の心を知ることは出来ない。
人々に会い、彼らが挨拶することもなく、すぐ直接会話が始まるのがとても異様に思えた。
どうして初めて会った人が挨拶しないのか聞いてみた。すると彼らは言った。
  「我々は同じ考えを共有しているので挨拶は必要ないのです。」
これには皆驚いた。そんなことがあり得るのかとも思った。最初は礼儀を知らないのかと思った。頭を下げ挨拶しあうという我々の風習との違いに面喰った。それはどこに移動しても同様であった。我々の歓迎式典の挨拶もどの都市においても同じ言葉が発せられた。
人が変われば言葉が変わるはずである日本では考えられない事である。
  「大同小異」という言葉があるが、「大同」が中国で、「小異」が日本なのかと思えたりしてきた。

中国旅行記(7)

  長い列車の旅からやっと解放され、杭州へ着いた。
日本語読みでは広州と杭州が同音なので、我々は杭(くい)の杭州と呼んでいる。
杭州に行けば西湖と西冷印社がある。これは今回の旅の一つの楽しみであった。
駅から山寺に向かってバスは一直線に進む。沿道は歓迎の人々が立っている。
町を外れると湖畔に出た。大きな白帆を立てた舟があちらこちらにいる。道際の木々の間に水上生活者らしい黒い舟も止まっている。その道路すれすれまで水が満ちている。土手の様なものがない。どうやら自然堤防の様だ。これは銭塘江という河ですよと教えられる。
昔、私の故郷の瀬戸内海を見た中国人が、日本にも大きい河があるじゃないかと言ったという、その話もまんざら嘘ではないような気がしてきた。
山寺に着くと、老人達が将棋のようなものに興じている。我々を見て笑顔満面で、「ニライラ、ニライラ」と呼んでくれる。彼らの背後から覗きこむ。同じようで違う将棋だ。中国へ来て、
  「バスが汽車、ホテルが飯店」など、思いもせぬ違いに面食らう。
西湖に着く。美人で名高い西施より名付けられた人造湖という。
小船に乗り小島に向かう。手漕ぎのユラユラ感がたまらない。
島に近付くと湖の中に大きな石の灯篭が3本立っていて、それが三譚印月だと教えられる。
かつて文人墨客が、満月と三譚の光を賞でていたのだという。
小島の中は、反り返った屋根の中国亭と蓮池に奇岩などが立ち、この国の風雅の心がやや解って来た。
いよいよ西冷印社に向かう、と思ったら湖畔にあった。
素晴らしい印泥が展示され、私はえも言えぬ興奮を覚えた。様々な朱色の美しさ、私が日頃書制作で使用している印泥もある。しかし、朱色が違う。奮発して上品印泥を色々入手した。(後で、北京の瑠璃蔽の店で同じ印泥を見た。朱色が杭州の色と違って見えた。値段もやや安い。店員に聞くと笑って答えた。それは杭州の西冷印社にあるものが最も上等な品物で、ややまずいものが北京に来る。そして最もまずいものが日本に流れている、とのことであった。)
やはり湖畔にある杭州飯店に着き、ベッドに横になる。広東と同じ蚊帳のある上等なベッドで王様気分になる。夜は市民による歓迎会が湖畔で開かれるという。
今までの歓迎会はホテルで開かれ、旅行社の関係者によるものであった。初めての市民との交流である。どんな歓迎を受けるのか楽しみであった。

中国旅行記(8)

  歓迎会場は湖畔の公園であった。市民の心のこもった飾りで煌々と照らされ、着飾った女性たちが手に花飾りを持ってトンネルを作り待っていた。互い「ニイハオ、シェシェ・・・・」と言いながらくぐっていく。若い女性の顔が厚化粧で、頬にはピンクの色、眉も濃く描かれ、まるで京劇の女性のようだ。
全くの同じメイクの中に一際飛び抜けた美人がいた。日本にはない優雅な雰囲気で、気品もあり西施のようだと思えた。
くぐっていくと広い芝生に出た。賑やかな音楽が流れ、フォークダンスが始まるようだ。
  「皆さん、トンネルを作っていた女性達と踊ってください、誰とでもいいです。」
の放送で、迷わず私は彼女のもとに走った。大学でフォークダンス部に入っていた私には得意とするところであった。彼女の背後から両手を取っての踊りが始まった。異国に来て、傾国の美女とも言いたくなる女性と今踊っている。
  「一瞬よ、永遠なれ」と願わざるを得ない。
ついにその曲が終わり、交代の時が来た。手を離さなければいけない。そう思っていた時、
  「曲が変わっても、今の人と踊り続けて下さい。」
とアナウンスが入った。
長い夢のような踊りが続いていった。
飯店に帰りベッドに横たわる。夢の気分にすっかり浸りきる。
暫くして男子学生が入ってきた。
  「今から反省会をします。すぐ来てください。」
と言われた。私は黙ってただ天井を見ていた。この幸せな気分を邪魔されてなるものかと思っていた。また入ってきた。
  「早く来いよ、もう皆待っているぞ、どうして来ないのだ。」
と強い口調であった。それでも私は動かなかった。そして暫くしてまた入ってきた。もう喧嘩腰である。私は夢の又夢が完全に壊され、
  「私は反省する事は何もない。」
と答えた。
  「今日の反省会だ、一人だけ来ないのは許せない。」
と真っ赤な顔である。私は嘆息しながら、あの美人と何と違う事かと思いながら、とうとうついて行った。
この学生一行は各大学の中国研究会のメンバーで構成され、特に現代中国の有様を知るために来ているのだ。芸術関係の学生は私一人である。
彼らは訪中前、何か月にもわたって集まり、勉強会や中国の歌の練習などを重ねている。
そういう彼らと今後も一緒に行動せねばならぬのかと憂鬱になるのであった。

中国旅行記(9)

  上海へは3時間程で着いた。流石に大都会、そう歓迎はされない。
和平飯店に入る。黄浦江に面したコンクリートの建物群は嘗て駐留していたヨーロッパ人の手による建築で異様を誇っていた。飯店の広い部屋の中に紐を通し洗濯物を干す。夜中も36度という熱風、寝るに寝れない。上海は中国3大釜の一つと言われているらしい。
飯店でのパーティを終え、こちらもややパーティー慣れをしてくる。第一、挨拶が広東などと同じなのだ。同じことを言う必要があるのかと思ったりする。
面白いことに上海の人達が私たちに広東という町はどういう所かと聞いてくる。行ったこともないし行けもしない所だと言う。我々の日本について聞く人は一人もいない。余りにも遠すぎるし、遥かな小島と思っているのかもしれない。ある中国人が
  「今日のこの雲が明日はあなた達の国に行きますよ。」
と言って笑った。
余興で中国の歌が披露され、余りの高邁な歌声にすっかり魅了されてしまった。
次は我々の歌である。こちらは手拍子でソーラン節を歌いだす。会場の雰囲気がいきなりトーンダウンする。我々も途中で止めたくなる。
中国の歌は朝起きて、さあやるぞという感じで、日本の歌はもうすぐ寝るよという感じ、その段差は言いようのないものであった。
大地の遥かまで自己存在を叫ばざるを得ない国民性と、海に守られ平和なのんべんだらりの国民性との違いが歌によっても理解され、私は可笑しくてならなかった。
きっと彼らは欠伸を耐え、仕事として歓迎してくれているのだろう。
翌朝、目をこすりながら外を見ると真向いの公園で大勢の人々が太極拳をしている。
老人も沢山いる。悠揚迫らざるその動きにすっかり見とれてしまう。それは体を開放し、宇宙の気を吸い入れ、その満々さを楽しんでいるような動きに見えた。
隣に人々がいることを全く気にせず泰然自若を絵に描いたようにも見えた。
この公園の背後は黄浦江で、様々な船が行き交っている。連結した100メートルもあろうかという運搬船も来る。河の向こうは古い工場群もある低湿地の様に見えた。

中国旅行記(10)

  朝食が終わった時、人民日報を持ってきた者がいて、裏面に我々の事が小さく出ていた。
そのトップ記事は毛主席が武漢の揚子江を泳いで渡る写真で、まだまだ意気盛んな姿の披露であった。北京に着けば毛主席に会えるかな、いや周首相なら来てくれるかも・・・・など我々は勝手なことを言い合った。私はこんな学生などに会う暇は無いだろうと思った。
バスで市内見物に出た。人ごみの大通りを経て、やや北寄りのコースを取る。運河のような川べりに西洋建築が建ち並び、異国情緒が残っている。やがて、閑静な一画に入る。
ここは旧日本人街ですよと言われ、一同身を乗り出して見る。嘗ての恵まれた生活が偲ばれる。
そして魯迅記念館に到着する。私は魯迅フアンで特に「阿Q正伝」は愛読書である。日本にも留学され、人々との交流の写真もあり、今なお日中双方で尊敬され続けている人物だと一層感じられた。
記念館を出ると、バスはフルスピードになり、やや郊外にさしかかった。白亜の宮殿の様な洋館建ての前に止まる。それと共にバスは子供たちに囲まれ、私はある少年と手を取って歩くことになった。白いシャツに赤いスカーフの可愛い共産主義の子供達という出で立ちだった。
そういえばここに来るまでの道路に幾組かのグループが行進していた。ゆっくり歩く男女の若者たちも同じ服装で整然とした行進であった。
  「ここは嘗ての西洋人の館です。それを開放して少年宮として使用しています。」
という話に、この国の未来にかける意気込みが感じられた。
多くの部屋で子供達が日常活動を展開している。歌を歌うグループや、刺繍をしているグループもいる。広い部屋に来ると、音楽が流れ、子供達とのフォークダンスが始まった。
清純無垢な笑顔に我々もすっかり打ち解け、心まで輪になったようであった。
奥の方の部屋に進むと、先に行った者達がテーブルを囲んで人垣を作っている。一人の少年が椅子に座り小筆で字を書こうとしている。大きな紙に横書きに書き始めた。
その筆の持ち方が中国人独特の筆の立て方で、軸を真っ直ぐ維持する為親指を立てつっかえ棒にするやり方で、これにより手首まで固定される。我々日本人は手首や腕を自由に動かしたいのでこういう持ち方はしない。彼等は文字を尊重し、文字に魂を感じているのだ。これほどの大人に囲まれながら何事もないように平然と書く。その泰然たる様に我々は息を呑んだ。
<歓迎、日本朋友>日本朋友来中国、今天来・・・と見事に書き切った。
どよめきと拍手が止まなかった。我々はとても日本の子供では真似ができない、我々すらできないよと言い合った。
やがて別れの時が来て私の手を握っていた少年とも別れなければならない。
これも生き別れの一瞬となった。