-この「中国旅行記」は現代中国には文革前の資料はなく、貴重なので・・・・との中国の方からの要望で2013年前半に書いたものです。
      翻訳文がこのホームページの中国語版に流れていますが、原文を日本の方々にも・・・・との声が多く、ここに掲載することにしました。-

  1966年7月21日、我々日本の関東学生友好参観団は勇躍、中国へ向けて、いや香港に向けて飛び立った。日中友好は夢のまた夢。中国は文化大革命の前であった。
            日本のエリート大学の学生120名が日本航空最大の機種である120人乗りを借りきってのスタートで、機内はお祭り騒ぎ。操縦室も出入り自由。気ままにどこにでも座っては騒ぐ、スチュワーデスも学生と一緒になって大変な喜びようであった。
            操縦室から見下ろす雲の景色は地球人から宇宙人になった様な気分で、出発までのあの苦労をすっかり忘れさせてくれた。
            出発10日前、まだ英国よりビザが下りない。ビザは2週間前に下りないと旅行は失効という時世であった。我々はこれに憤慨し、男女2人づつのカップルを組み、旅行申請者のふりをして、やがて外務省の2階の廊下を占領し座り込んだ。
              「なぜ我々を中国へ行かせないのか、その理由をはっきりしろ。」
            と叫んだ。すると
              「我々は許可を出しました。ストップさせているのは法務省なのです。」
            という思いがけない返事で面喰ってしまった。
            東京郊外の学生たちはもう出発の意気込みで、旅行鞄を持参している。引くに引けない戦いなのである。
            -と言うのは、香港への往復旅行代が149000円、これを皆支払っている。120人分は17880000円となる。サラリーマンの初任給が25000円の時代である。半年以上懸命にバイトをして溜めた旅行代である。(中国へ入れば代金はゼロ。中国政府が招待してくれている。)-これをどうしてくれるかとの戦いでもあった。
            東京の日比谷公園の噴水前に皆集合し、どうしようということになった。様々な意見が出た。
            だが皆が賛同出来ない。やがて日が暮れて皆しょんぼりしてきた。私は自分が動かねば動かないと思い立ちあがった。
              「日本政府は我々学生を信用せず、中国へ行くと赤化すると恐れている、とんでもない話だ。
            我々の中には政治家やジャーナリズムの関係者がいるだろう。手を挙げてみてくれ。」
            と言った。すると思いがけぬ多数の者が手を挙げた。
            私の父は○○党の議員、わたしの伯父は○○党、僕の兄は○○新聞の記者、私の兄は○○テレビと次々言い始めた。
              「じゃー、こうしよう。皆自分の関係する機関に3人編成で出かけてくれー。そして言うのだ・・・・日本政府は我々若者が中国へ行くことを拒否している。日本では昔からかわいい子には旅をさせろと言うではないか。我々の旅行に反対するということは自分たちの教育に自信がないことを政府自身が実証することになるがそれでいいのか・・・・と、この言葉で今から一斉に動こう、どうだ。」
            と叫んだ。「そうだ、それでやろう。」と皆も一気に元気になり騒然としてきた。
            私は他の2名と朝日新聞社に乗りこみ、政治担当の記者に顛末を話すと、彼らは「解りました、動きます。」と答えてくれた。そして急転直下我々の中国行きは許可されることになった。
            各政党、テレビ局、新聞社の担当者が一斉に総理官邸に押し寄せ、その結果、緊急閣議が夜中に開かれて、英国大使館より特別ビザが発行されることになり、我々は真夜中の噴水の前で万歳三唱をすることになった。
  我々の浮かれた気分は香港で一掃された。ホテルに着き旅行用リュックを開く。
            くつろいで友人の部屋へと廊下に出ると、こちらをじっと見て座っている者がいる。階段を下りるとやはり廊下の隅に人が座っている。我々は何者なのかと囁き合った。
            暫くして、部屋を離れる時は旅行鞄にも鍵をかけること、盗みを見張る為に全ての階に人が座っているが、その人達も信用できないと通達が来た。我々はとんでもない所に来てしまったと実感することになった。
            夕刻、香港名物の水上レストランへの移動となった。そこへは3~4人づつ手こぎの舟に乗り次々と向かう。進む水路の両側は水上生活者の船で身動きできない程である。
            ネオンのついた大きな船のレストランに着き2階へ通された。先に上がった者達が外を覗いている。小舟に乗った子供たちが何やら叫んでいて次々と波を立てて小舟が押し寄せる。一人が漕ぎもう一人が手を挙げている。その歓迎に我々も手を振る。
            ところが反応がどうもおかしい。彼らは一層大きな声を出し片手に持った帽子や袋を指さす。それが何なのかしばらく解らなかった。
            誰かが小銭を投げ入れた。それを見て我々も次々と投げ始めた。昔、日本が戦争に敗れた時、横浜の港でこのような光景があった話を耳にしていて、それが思い出された。
            テーブルにつくと日本では味わうことができない中華料理が次々と出て、本土に入ればどれ程の料理を堪能できるかとの期待を抱くのだった。そして心を籠めてボーイ達にお礼を言い階段を下りた。
            その時、一人の男子学生が慌てて階段を上がって行き、その友人達も追いかけるように上がっていった。パスポートを置き忘れたと叫んでいる。すぐ下りてくる筈が中々来ないので上がってみた。
              「ここだ、ここに置いた、たった今までここに置いていたのだ。」
            と友人達も叫んでいる。だがボーイ達は知らぬ手振りをして逃げて行く。とうとう我々は諦めざるを得なくなってしまった。なんと自由世界がこんなにも無秩序世界でもあるのかと思い知らされた。
            今からいよいよ共産主義の中国本土へ乗り込む。一体これからどうなるのだろうかと異国への不安を募らせた。
  異国での第一日目が終わり、列車で国境の町、深圳へ向かった。
            あのぎっしり詰まった家々がいつの間にか無くなり、平坦な田舎風景、それでも珍しくてシャッターを切ったりしていた。やがて遥かに小高い山々が表れ、それを撮影しようと身を乗り出した時、
              「撮影はここまでです。これから先は絶対に駄目です。向こうの山に兵隊がいて、望遠鏡で監視しています。見つかれば狙撃されます。」
            と言われ我々は驚きの声をあげてしまった。
            香港側の終点駅に着き、長いレールの上を歩き、遮断機を過ぎると中国領であった。
            兵士達にカメラを見せ撮ってもいいかとわざと訊ねてみた。すると意外な返事が返ってきた。
              「どうぞどうぞ、どこでも撮ってください。」と。
              「何だ何だ話が違うじゃないか。カメラOKだって、こっちの方が自由だぞ。」
            と私は大声を出してしまった。緊張の糸が一気にほぐれて、私の若僧振りが又復活しそうになった。
            何もない風景の中、右側に大きなコンクリートの2階建てがあり、それが休憩所であった。
            長らくの休憩である。外に出てみると人家のない全くの田園風景。道路を歩いて行くと何やら農婦達が物を売っている。それは牛乳瓶に入ったミルクコーヒーであった。喉を枯らした我々はそれを買い一気に飲んだ。昔飲んだ味、粉末牛乳と粉末コーヒーを混ぜ合わせたものであった。
            2階の控室に戻ってくつろいでいると、誰かが私の肩を叩く。二度三度と叩く。
              「清水さん、清水さん。」
            と聞いたことのある男の声で、振り向いて私はギョッとした。何故こんな所に、こんな異国で逢うとはと驚いてしまった。
            日本の中国語学校の先生達だ。その先生達の先生である中国人の李先生(女性、広東省出身)も立っていて、ニコニコしている。
              「スミマセーン、サボってしまって・・・・。」
            と思わず言ってしまった。
              「いいのですよ。それよりあなた達はこれから旅行でしょ。歓待されますよ。食べ過ぎに注意してね。私達は李先生以外、皆ダウンしました。一週間の旅が終わり今から帰国します。」
            と注意を受けた。我々は当時外国人旅行の最長滞在の2週間の旅である。思わぬ先生達に出会い、興奮が一気に冷めてしまった。
            それは私が一年前より日本の夜学の中国語学校に通っていて、半年は続いたが、現在サボり状態であり、授業料も滞納していたのであった。
            私は中国語の四声の発声が苦手で、先生達を困らせていた。美人女性の先生が特別レッスンをしてくれた。唇をかんだり口を大きく開けたりして教えてくれる。私は虫歯が多く人前では口をできるだけ開けないように努めてきた。それをウンと開けろと言う。先生が私の眼前で大きく口を開けて発声した。その時口の奥ののどちんこが見えた。それですっかり興ざめしてしまった。それからサボり続けていた。
            ここで見つかってしまったが、先生達のニコニコ顔に救われると同時に、体に注意せねばいけないとしっかり思い知らされた。
  広東へ向かう為、大きな中国製の列車に乗り換えた。プラットホームが低く、車中への踏み段が一段しかない。長旅のスタートだ。
            ワイワイ言っているうちに広東らしき街が見えてきて、街からドンチャン太鼓などの音がする。祭りだ祭りだと見ているうちにプラットホームが見えてきた。
            プラットホームにも人だかりだ。若い男女が飛び跳ねている。様々な色の造花の様なものを持って踊っているようだ。
            列車が止るとその踊りが我々の所まで押し寄せた。誰かが国賓とどうやら乗り合わせたようだと言った。
            我々は最後列の車両にいる。国賓が前から降りるのを見逃すまいと皆窓から首を出した。
            目の前に飛び跳ねる若者は学生の様だ。私達にも笑顔で何かしゃべっている。国賓らしき人は下りて来ない。
              「さあ皆さんもう下りて下さい。」
            と声がかかり、一斉に荷物を持ち出口に向かう。
            私も踏み段を一段下りた時リュックが取り上げられてしまった。何をするのだと言う間もなく私の体は若者達の腕によって抱えられた。
            ブラブラ状態の姿で運ばれるプラットホームには獅子舞だの太鼓だので耳を覆いたくなる程の賑やかさだ。語りかける学生達の声も聞こえない。
            やっと降ろされた駅前には6台のミニバスが待っていた。広場を取り巻く人々の拍手と歓声、我々の興奮は絶好調となった。バスが進む両側は立って拍手する人々。幼稚園児達は小さな椅子に座って手を振っている。私は窓から手を出し麦わら帽子を振り続けた。
            その時の私はアロハシャツに短パン姿、ゴム草履に麦わら帽子、そして赤いリュックといういで立ちであった。バスに乗っているので外からは見えない。延々と手を振り続け嬉しいけれども疲れてくる。自然に日本の天皇の大変さが解ってくる。
            そうだ我々は学生と言えども日本の代表だ、有り難い迎えに答えねばならない。これほどの歓迎を受けようとは誰一人思いはしなかったろう。皆、貧乏な一介の大学生である。
              「あなた方の事は逐一人民日報で報道されているのですよ。」
            と中国人の女性通訳が我々に説明した。
            これからは変な行動は慎まなければと一人思うのであった。
  風格ある広東飯店に入る。大理石のフロアーでエレベーターを待っていると、隣のエレベーター前の男達がしきりに我々を見ている。時々目が合う。中国人とどこか違う。こんな所に日本人がいるはずがない。そう思うが気になる。誰かが日本語で訊ねてみた。
            日本から来た船乗りだと言う。日中友好のない中、日本の学生らしい者が沢山いて不思議に思えたのだろう。
            (我々の旅行中、日本人の一団に会ったのはこれが最後であった。また、アフリカ人の観光客が意外に多いのには驚かされた。)
            暫く部屋で仮眠を取り、再び駅に向かい寝台車に乗りこんだ。二段式の広々とした空間であるが、上段へはどうやって上るのだろう。梯子の様な物がない。皆で探すが見つからない。じゃ腕力のあるものが上にと決める。下りたら又反動をつけて上がらねばならない。
            それを見て皆笑う。女性の部屋も大変な事になっている。中国式とはいえ凄いなあと言い合う。白い服を着た中年の男性乗務員がひっきりなしにお茶はいらぬかと来てくれる。
            水は禁物なので大助かりである。
            列車長の腕章をした女性が20歳位なのに驚く。この国は重要な仕事を若者にまかせているのだ。責任を持たせれば人は成長することを信じているのだろう。
            それに比べ我が日本は老人支配で恥ずかしくなってしまった。
            寝台の上部から音楽が休みなく流れている。それが同じ曲で「トンファンフォン・・・・」と甲高い女の歌声で、これが今最も愛唱されている革命歌「東方紅」だと教えられる。
            朝目が覚めたころ途中の駅で停車した。冷え冷えしたプラットホームに降り、久しぶりに背伸びをし順番に顔を洗った。まだまだの長旅である。
            遥かに続く水田地帯に入ると、あちらこちらに水牛がいて子供たちが背に乗かかっている。
            泥まみれで飛び込んだり泳いだりしている子もいる。
            クリークでは古い絵巻物に描かれているのとそっくりな編み籠漁をしている男もいる。
            変わらぬものがここにはあり、悠久と言う言葉はこういう所から自然に生まれたのだろうと思えてくる。